モテるための散歩

散歩ってしたことありますか?俺は15年くらい前から、ようやく始めました。

散歩といっても、幼稚園や保育園の「おさんぽの時間」とか遠足とかで無理矢理連れ出されたり、旅行に行って名所を廻ったりすることじゃなくて、ただその辺を歩くだけのために歩くこと。あそこの路地を入ってみよう、とか、ひと駅分歩いてみよう、とか、そういうやつ。俺はそれをもう、三十歳前まで、全くやってこなかった。ほんとに、ゼロ。

歩くという行為は俺にとっては完全に移動手段でしかなく、乗り物の純粋な下位互換。大学から高田馬場駅までよく歩いていたけど、それは交通費を浮かせるためで、同じ通りの同じ側しか通らない。古本屋をはしごするときだけ、早稲田通りを渡る。目に入るのは自分の懐具合でなんとか入れそうな新しくて洒落たチェーンのレストラン(その頃だとカプリチョーザシェーキーズ)、今から見りゃ面白くもなんともない。最近あの辺りを「散歩」してみたら、もう、何時間でもウロウロできるくらい、新旧入り混じったいい街なのに、大学の4年間では全く目もくれていなかったのだった。

 

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若いうちってそういうもんかもしれないが、とにかく、自分に関係するものしか興味がない。好きな本読んで、好きな音楽聴いて、楽器の練習して、アルバイトして、デートして。勉強はしなかったけど。その範疇にあるもの以外、特に古いもの、昔からそこにあったものなんかには、全く興味がなかった。「学生街の名店」みたいなとこにもほとんど行ったことはない。なんつうかな、「メーヤウ」には行くけど「キッチン南海」には行かない、みたいな。どっちももうないと思うが、どうなんだろ。

そのうちに地獄の就職活動(2001年の新卒採用ってほんとキツかったんだから。企業に就職活動をする、って時点で、ほぼ負け)して、唯一受かった会社を3か月で辞めて、第二新卒なんて採るところがあるはずもなく、派遣で働きながら勉強して、なんとか今の職場に滑り込んで、職場で派手な恋愛して、相手を強引に新居に引き抜いて、結婚して。それでやっと、「散歩」を、するようになった。

新居があった「マギヌ」というところはどの駅からもかなり遠く、土曜出勤の妻をバスに乗って梶ヶ谷の駅まで送り(場合によっては職場まで送ったりしてたけど)さて、どうしようか、というとき、歩いてみるか、と思った、ような気がする。ちゃんとは覚えていないけど。

遠回りして、家や店を眺めて、看板や標識や注意書きを読んで、道を行く人を見る。それは最初はなかなか上手くいかず、視覚の情報が頭の中で散逸していってしまうことが多かったが、声を出さずに独り言をいう形でかなり「散歩」が上手くできるようになった。幸いというかなんというか、その東急田園都市線沿いの街々はどこも新しくて「単純」で、風俗街もパチンコ屋もなく、全ての駅前に神戸屋とケンタッキーと東急ストアがある初心者向けのところで、こう、把握しやすい場所でもあった。

その頃、「冷え汁」という個人サイト(そのころは「テキストサイト」といっていた)を知って、あー、こういう視点があるんだ、と感銘を受けた。「面白がる」という行為を学んだ、というかな。その人とまさか会って飲めるようになるとは思ってもいなかったけど、それはまた別の話。

多分、その頃、生まれて初めて「余裕」というものが出てきたんだと思う。自分に関係ない街並みを眺めて、面白がる、余裕。人為と自然が時間をかけて混ざり合ったものや、ときに突拍子もない間違いや偶然で生まれたものを楽しむ、余地が、やっと、できた。

で、散歩を始めてから、どうなったかというと、妙にその、「モテる」ようになった。

いや別に恋愛をするようになったとかそういうんではなく、人に多少は面白がられるようになったというか。それまではほんとに俺は、自他共に認める「つまんない奴」だった。実際面と向かって言われたことも何度もある。そしてまあ、それも当然だ。自分に関係あることにしか興味がない人間が、面白くて人に好かれるはずがない。いっぱいいっぱいの奴はモテんよな、そりゃ。妻はよく拾ってくれたもんだ。

就職活動の頃のことも、思い返してみれば、いくら「氷河期」じゃなくたって、あの頃の俺は志望(しかもマスコミ!)に受かるはずなんて絶対になかった。つまんないんだもん。マスコミが採用するもんか。散歩もしたことのない人間なんて。

だから、若い頃の俺になにかアドバイスができるなら、「学校の周りを散歩しなさい」って言うかもしれない。でもなあ。余裕がない奴にそんなこと言って無理に歩かせたって、面白がることなんてできないんだろうなあ。でも、ワンチャン、あるかも。それくらい、あの当時の学生街の周辺は、魅力的だったはず。そして、それを体感できたのにしなかった自分が非常に悔やまれる。


でも、できなかったもんはまあ、仕方ないよな。

別れた女の子みたいな本の話

俺はどうも惚れっぽいらしい。作家に。惚れっぽかったというべきか。

中学生のときはとにかく筒井康隆ばかりを読んでいた。それ以外にも何か読んでたような気もするが、今では全く記憶にない。手に入る全ての筒井康隆の著作をひたすら読む。小説・エッセイ問わず、気に入ったものは何回も何十回も、ボロボロになるまで、読む。文章を真似する。山藤章二の描く筒井康隆の似顔絵まで模写していた覚えがある。

高校生のときは椎名誠原田宗典、(なぜか)ミステリのマイケル・Z・リューイン沢木耕太郎。大学以降は中島らも村上春樹町田康高橋源一郎矢作俊彦、そして丸谷才一東海林さだおのエッセイ。一度ハマるとすべての著作を、とにかく古本で買い漁る。何度も読むので手元に置きたいのだ。大学の近くの古本屋街がとても重宝した。1冊10円、カバーなんていらない。今ではその辺りの古本屋はほとんどなくなって、ラーメン屋ばかりになってしまったが。

買い漁り、読んで、読んで、読んで、そしてあるとき、パタッと読まなくなる。女の子と別れた時みたいに、パタッと。そして、別の作家に走る。まあ、全部手に入れて全部読んだんだから読むものが無くなった、っていうのもあるんだが、数年後にその人の新刊が出ても、まず手に取ることはない。なんだかこう、怖いのだ。今より若い自分が憧れ、求めていたイメージを疎ましく思うからか。それとも、読み漁っていた当時の熱狂的な心酔が損なわれるような気になるのが苦しいのか。どっちにしろ、俺にとって本を読むということは、かなりの「同一化」みたいなのを必要とするものなのかもしれない。最近ではもう、そんな熱狂もどこかへ行ってしまったが。

俺は「モノ」に対する執着が異様に薄く、特に自分に関するものは、もうほとんど全て棄ててしまった。自分で書いた卒論も、子どもが生まれるまでの写真も、全く残っていない。でも、俺を作り上げてきた、この十数人分の「全集」は、どうしても処分することができない。別れた女の子にはもうなかなか会えないが、こいつらはじっと、いつまでも、ここで待っていてくれる。

いつか息子が、手に取ってくれたらいいな。たった1冊でもいいから。

鑑賞の呪縛

俺の妻は、すぐに俺を軽く「超えて」いく

アメリカンフットボールは面白いよ、と教えるとたちまちのめり込み、好きなチームを3つも作って選手の名前も覚えまくって、戦術の論評まで始める。俺は未だに「ショットガン」と「ピストル」のフォーメーションの違いがパッとわからない。

ラップも聴いてみたら、って、フージーズのCD聴かせたらもう、ハマりにハマって、今では音楽はラップしか聴かない。ビルボードの最新チャートを毎週チェックして、AppleMusicで聴きまくっている。ジョーイ・バッドアスがお気に入りだそうで、ヒップホップは西海岸ではなく、東海岸に限るそうだ。俺にはやっぱり違いがわからない。

 

B4.DA.SS

B4.DA.SS

  • アーティスト:BADASS, JOEY
  • 発売日: 2015/01/30
  • メディア: CD
 

 

 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を薦めたら、マルケスとバルガス・リョサの小説の邦訳されているものを全て読み漁っていた。俺に「なぜ読まないのか」と不思議がる。ちょっと重くて長くてね。あと、場面が変わりまくってちょっと頭使ってさ。でもこれは、今から読んでみようか。

 

緑の家(上) (岩波文庫)

緑の家(上) (岩波文庫)

 

 

奴はとにかく、100パーセント、「鑑賞」するのだ。スポーツを、音楽を、文学を。そこに「参加」の要素が、ひとかけらも、ない。


アメフトの超人的な肉体と精神と頭脳による駆け引き、ヒップホップの圧倒的なセンスと技術、マルケスリョサの唯一無二の誰にも真似できない天才性。自分に取り込もう、真似しよう、参加しよう、なんて、全くないのだ。

ただひたすら、「天才性」を「鑑賞」する。

「天才」にしか、興味がないのだ。そして、それを、ただ、享受する。


俺はジャズをやっていたので、ジャズも聴かせてみたのだが、こちらは全く興味を持たない。全く惹かれないらしい。まあそれは、感性の問題で仕方ないのだが、ある時彼女はこんなことを言った。

「ジャズってさ、参加するための音楽だよね。」

なんだか合点が行った。

ジャズは、少なくとも俺が経験してきた世界では、演奏をしなくても「参加」するものであった。ツイードのジャケットを着て、帽子を被り、薄暗いジャズ喫茶でコーヒーかウイスキーを飲みながら半目で頷きながらリズムを取る。オーディオにこだわり、「ポール・チェンバースのベースの高い方の音がコンクリートをコツコツと叩く音になるように」(確か村上春樹がそんなこと言ってたような)調整する。蘊蓄を傾け、クレジットを見ないで誰が演奏しているのか当てあう。

そういったことは、妻の「鑑賞」には入っていないのだ。それが抜け落ちたときに、彼女にとっては魅力的なものではないのだ。

俺は彼女がもちろん好きだし、非常に強く影響を受けている。だからいつ頃からか、楽器を演奏したり、文章を書いたりしようとすることはなくなってしまった。俺みたいな凡人が何をやっても、最高のものは作れない。

最高のものでなければ、存在する意味はない…。


そして今こうやって、俺は妻の呪縛から抜け出そうと、もがいている。

 

もちろん妻は、俺の書いたものになんて、目もくれない。

 

人のことを恥ずかしがるな

「で、結局どこの中学校に行くって?」と俺が尋ねると、妻は「それが教えてくれないんだ。こっちから訊くわけにもいかないし。」

それで合点が行った。そりゃ家出もするさ。

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妻とは職場結婚なので、共通の知人が多い。知人といっても俺はまず職場で人と話したりはしないのだが、家族絡みでの付き合いはどうしても発生する。妻の元上司の女性、Tさんにはうちの息子の1歳上の男の子がいて、「ママ友」的に仲が良く、Tさんの住む吉祥寺の辺りで何度か家族同士で遊んだりした。埼玉の真ん中からわざわざ出向くのには若干骨が折れたが、こちらのテリトリーに入って来られるよりはまあ、マシだ。うちに来るなんていったら目も当てられないし。

Tさんの息子のリョウ君は、線が細くておっとりした感じのおとなしい男の子だった。こちらから話しかければ何でも答えるが、彼からなにか話しかけて来ることはない。もう会ったのは5,6年前なので顔も覚えていないが、繊細な印象を持っていた。

俺たちの仕事は3年に1回程度「人事異動」が行われるので、妻とTさんとは一旦疎遠になったようだが、息子が中学受験をしようかというときに、1歳上のリョウ君がいて中学受験をさせるというTさんに相談をし、情報交換をしていたようだ。といっても、こちらが一方的に情報を享受するだけだが。


この年度末、受験の結果が出る頃になって、俺は妻にリョウ君はどうなったのか尋ねてみると、知らない、という。最近会っていないのでわからない、と。
ふうん、まあ、そんなに仲良くもないからそういうもんかな、と思っていた。

いや、実は断片的に、リョウ君が大変だったってことは耳にしていた。ちょっとその話の出所がその、あまり妻に大々的に言えない所だったので、黙っていたのだが。まあその、職場が同じだといろいろあったりするのだ。


で、昨日、やっと、妻とTさんが昼食を食べに出かけ、話を聞いてきた。

リョウ君は受験の1か月くらい前からちょっと「おかしく」なってしまい、学校へ行くと家を出ても登校せずに近所をブラブラしたり、電車に乗って立川あたりに住むTさんの夫の実家に行って「匿って」もらったりするようになったらしい。その度に学校から連絡があって大騒ぎで、Tさんと夫の関係もぎくしゃくし、受験もやめようか、ということになったが、リョウ君がやっぱり受けたい、ということで、どこかの私立中学校にはどうも合格して、行くらしい、ということだった。

それで改めて、冒頭のように妻にどこの中学校に行くのか尋ねたら、教えてくれないという。


つまり、Tさんはリョウ君を「恥じて」いるのだ。

 

「いい中学」に入れなくて「恥ずかしい」から、「教えない」というのだ。

 

それってかなり、ひどい話だぜ。

 

Tさんはとても「前向き」で「優しい」人だ。いわゆるスパルタ教育ママ、みたいなタイプでは全くない。ただなんだろう、こう、少し、なんていうか、よそよそしい優しさのようなものを感じることはあった。なんていうかな、可愛い犬に呼びかけるみたいな、そんな感じ。「よくできたね~。偉いね~...。」

子どもは親の感情を感じ取る。それはもう、間違いない。リョウ君はTさんに、己の勉強のできなさを周囲に恥じられていることを感じ取っていたに違いない。中学受験なんて、事前の模試でもう、受けられるレベルは決まってしまう。受ける前から既に「恥ずかしい」レベルだったのだろう。Tさんにとっては。

この残酷さは、親子共々、その暴力性を自覚することが難しいところが厄介だ。「厳しく叱責する」のであれば、叱責している方もされている方もその自覚があり、それに対する「覚悟」もできる。しかし、「よくできたねえ」「がんばろうね」「やればできるよ」なんて言いながら、子どもの無能を憐み、そして周囲にその存在を恥ずかしがる。そこには親子の間の目に見える軋轢はなくそれが逆に深い溝と傷をつけていくことになる。

Tさんはずっと、子どもに悪いことをしたという認識を持たずにいるのだろう。これはもう、他人が踏み込む領域ではない。

救いがあるのは、リョウ君が「壊れた」ことである。違和感に気付いて、きちんと声を上げた、反抗したことである。


彼の人生に幸あれ

奇を衒え

俺は「奇を衒って」生きている。

 

髭を生やしハンチングを被り、お堅い職場にジーンズとパーカーで出勤し、目上の人間にも敬語は使わず、おかしな写真を撮り歩き、SNSでは穿った偉そうな意見を述べ、ほとんど人とは付き合わず、孤高を気取っている。

 

だって、俺は俺だぜ?唯一無二の、特別な存在の俺様が、そんな他の奴らと同じようなこと、できるか?

 

でも内心では気付いている。俺は普通の人間なんだって。普通とはなにかって?常識的なつまんない奴だってことだ。

 

職場にラフな格好で行くのはそれが認められると理解しているからだし、敬語を使わないのもそれが許される、気の置けない相手だけだ。人と付き合わないのは、恐らく、見破られるのが怖いからなのだろう。

 

学生時代は、音楽をやっていたこともあり、周囲には驚異的な個性と才能を持った人間が溢れていた。「ナカジはソツがなくてつまらない」とよく言われたもので、それが悔しかった。その後就職して周囲にはそんな天才肌はほとんどいなくなり、調子に乗って変人を気取っていた。だがここに来て、いろいろあって、思い知らされることになった。俺は、普通だ。特別な感性を持ち合わせていない。

 

だがそれでも、やっとこうして言葉を絞り出すようには、なった。20年かかった。

 

落ちもなにもない。どうしたらいいのかもわからない。ただ、もう少しだけ、もがいてみようと思っている。

式嫌い

俺は凡そ「式」と名の付くものが嫌いである。結婚式、入学式、卒業式、成人式、葬式。「チャート式」や「オギノ式」なんてのにさえ、響きに嫌悪感がある。

特に、結婚式って奴が苦手だ。結婚なんてものはそこから先が大事なわけであって、「結婚式」に憧れてそこに幸せのピークを持って来たらあとはもう不幸になる一方じゃないか。大体、「招待する」なんていうけど、「私たちを祝え」って呼びつけてしかもご祝儀せしめるなんて、カツアゲみたいなもんじゃないか。

 

俺の初めての女は、大学1年生のときの同じサークル、同じバンドでクラリネットを吹いている子だった。まあなんていうことはなく「普通」に付き合っていたんだが、唯一の問題は、彼女が俺のことをそんなに好きではないということだった。

ジャズ喫茶で働いていた彼女は一度、客の男と仲良くなり、俺から離れたのだが、そいつがろくでもないストーカー気質の奴だったようで、俺に相談をしてきた。まあ、なんとか撃退してよりを戻したんだが、今度は同じバンドのトロンボーンの男とくっついてしまった。奴らが「くっついた」旅行の宿を取ってやったのは、俺だった。

なんせ同じバンドであり、俺はサークルのマネージャーをしていたので、とにかくそいつらと顔を合わせないわけにはいかない。大学を卒業した後にも趣味のバンドを一緒にやることになり、いまだに年賀状が来る。俺からは出さないが。

何かの集まりがあったとき、俺はつい、「結婚式ってカツアゲみたいなもんだよな」と奴らの前で言った。そうしたら彼女のほうが腹を立て、「あなたは絶対に私たちの結婚式に呼ばない」と言う。俺は慌てて取り繕い、謝って、「お願いだから呼んでほしい」と懇願した。結果、俺も結婚式に呼ばれ、みんなで仲良く演奏したのだった。

 

俺はあの女が好きだったんだろうか。だから、式が、結婚式が嫌いになったんだろうか?

いや、でも、俺は大学の卒業式にも行ってない。あの女と一緒に出るはずだった、卒業式に。

2001年インドの旅

俺は、強い嫉妬の感情を抱くと、両こめかみから頭頂部にかけてぞわっ、と痺れが這い上がり、それが食道を通って胃にぐっ、と下りてきて、ゲロが出そうになる。つい最近も誰かさんにそんな経験をさせてもらった。まあ、生きてりゃ色々ある。

また、大好きな音楽を聴いたり、本を夢中で読んだり、映画でえらいこと感動したりすると、鳩尾の辺りがもぞもぞして、それが背中の方に回って心臓を持ち上げてくる。ただ、こっちの方の感情は、もう最近はほとんどなくなってしまった。歳は喰いたくないもんだ。


俺が今までで最も多く読み返した本は、小学生の時に家にあった「学研まんがひみつシリーズ」なのは間違いない。100回以上ずつは読んだし、内容はいまでもほとんど頭に入っている。

そして、次に多く読み返したのは、これだ。

 

深夜特急3-インド- (新潮文庫)

深夜特急3-インド- (新潮文庫)

 

深夜特急。ミッドナイトエクスプレス。路線バスで香港からロンドンまで。特に前半、インドの部分にハマりまくって、何十回と読み返した。

で、行きましたよ。インドに。もちろん一人で、宿の予約も一切せず、往復の航空券だけ買って。2001年の2月だったか。同時多発テロの直前に。

チェンナイから、電車でカルカッタ、バラナシ、デリー廻って、チェンナイに戻る。インド一周3週間の旅。

いろんなことがあった。深夜特急に書かれていることより、よっぽどいろいろ。深夜に着いてタクシー乗って連れて行ってもらった宿では屋外の鉄格子の向こうで寝ている主人を叩き起こしてゴミ箱みたいな部屋に泊まったし、カルカッタでは偽ハシシュと変な布を掴まされて大枚を奪われたし、バラナシで死体焼いてるのも眺めたし、狂ったサドゥー(聖職者)に絡まれたし、バングラッシー(マリファナドリンク)飲みすぎて目を回してインド人に頭に水ぶっかけられたし、下痢で死にそうになったし、チェンナイでは人のうんこだらけの砂浜で延々と投網をしてるおっさん眺めたし、宿のレストランでカレー頼んだら材料から買ってきて2時間待ったし、朝散歩していたら建物の下の穴みたいなところから6人家族が出てきていきなりチャイ屋がオープンしてびっくりしたし、日本人の旅行客のかわいい女の子とデートしたし。インド人のカースト制故の刹那的な価値観や、騙そうとしては来るが、決して「強奪」しようとはしない妙な礼儀正しさには感銘を受けた。

面白く、得難い体験だった。ただ一方で、こんなもんか、そうだよね。実際はこんなもんだよね、といった落胆もあった。「自分探しの旅(笑)」としては、全く。

実体験で上書きされた後は、「深夜特急」を読み返すことも、もうなくなってしまった。そりゃそうだよね。実際に行ったんだから。自分の目で見たんだから。


で、先日、(おそらく)本を読まないから成績が芳しくない息子のために、何かいい本はないかと本棚をひっくり返していたら、「深夜特急」が出てきた。息子にはまだ早いかと思いながらページをめくっていると、鳩尾がもぞもぞし出した。

文字から目を離せば、自分で見たあの光景を思い出すことはできるが、文字を追いながら浮かぶ光景は自分で見たそれではなく、行く前にこれを読みながら思い浮かべたものだった。景色も、色も、匂いさえも。俺にとってのインドは、実際に俺の行ったあそこではなく、ここだったのだ。

そして、これを書いたときの作者の年齢をとうに超えてしまっている自分に気づき、こめかみが微かに痺れるのだった。