鑑賞の呪縛
俺の妻は、すぐに俺を軽く「超えて」いく
アメリカンフットボールは面白いよ、と教えるとたちまちのめり込み、好きなチームを3つも作って選手の名前も覚えまくって、戦術の論評まで始める。俺は未だに「ショットガン」と「ピストル」のフォーメーションの違いがパッとわからない。
ラップも聴いてみたら、って、フージーズのCD聴かせたらもう、ハマりにハマって、今では音楽はラップしか聴かない。ビルボードの最新チャートを毎週チェックして、AppleMusicで聴きまくっている。ジョーイ・バッドアスがお気に入りだそうで、ヒップホップは西海岸ではなく、東海岸に限るそうだ。俺にはやっぱり違いがわからない。
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を薦めたら、マルケスとバルガス・リョサの小説の邦訳されているものを全て読み漁っていた。俺に「なぜ読まないのか」と不思議がる。ちょっと重くて長くてね。あと、場面が変わりまくってちょっと頭使ってさ。でもこれは、今から読んでみようか。
奴はとにかく、100パーセント、「鑑賞」するのだ。スポーツを、音楽を、文学を。そこに「参加」の要素が、ひとかけらも、ない。
アメフトの超人的な肉体と精神と頭脳による駆け引き、ヒップホップの圧倒的なセンスと技術、マルケスやリョサの唯一無二の誰にも真似できない天才性。自分に取り込もう、真似しよう、参加しよう、なんて、全くないのだ。
ただひたすら、「天才性」を「鑑賞」する。
「天才」にしか、興味がないのだ。そして、それを、ただ、享受する。
俺はジャズをやっていたので、ジャズも聴かせてみたのだが、こちらは全く興味を持たない。全く惹かれないらしい。まあそれは、感性の問題で仕方ないのだが、ある時彼女はこんなことを言った。
「ジャズってさ、参加するための音楽だよね。」
なんだか合点が行った。
ジャズは、少なくとも俺が経験してきた世界では、演奏をしなくても「参加」するものであった。ツイードのジャケットを着て、帽子を被り、薄暗いジャズ喫茶でコーヒーかウイスキーを飲みながら半目で頷きながらリズムを取る。オーディオにこだわり、「ポール・チェンバースのベースの高い方の音がコンクリートをコツコツと叩く音になるように」(確か村上春樹がそんなこと言ってたような)調整する。蘊蓄を傾け、クレジットを見ないで誰が演奏しているのか当てあう。
そういったことは、妻の「鑑賞」には入っていないのだ。それが抜け落ちたときに、彼女にとっては魅力的なものではないのだ。
俺は彼女がもちろん好きだし、非常に強く影響を受けている。だからいつ頃からか、楽器を演奏したり、文章を書いたりしようとすることはなくなってしまった。俺みたいな凡人が何をやっても、最高のものは作れない。
最高のものでなければ、存在する意味はない…。
そして今こうやって、俺は妻の呪縛から抜け出そうと、もがいている。
もちろん妻は、俺の書いたものになんて、目もくれない。