別れた女の子みたいな本の話

俺はどうも惚れっぽいらしい。作家に。惚れっぽかったというべきか。

中学生のときはとにかく筒井康隆ばかりを読んでいた。それ以外にも何か読んでたような気もするが、今では全く記憶にない。手に入る全ての筒井康隆の著作をひたすら読む。小説・エッセイ問わず、気に入ったものは何回も何十回も、ボロボロになるまで、読む。文章を真似する。山藤章二の描く筒井康隆の似顔絵まで模写していた覚えがある。

高校生のときは椎名誠原田宗典、(なぜか)ミステリのマイケル・Z・リューイン沢木耕太郎。大学以降は中島らも村上春樹町田康高橋源一郎矢作俊彦、そして丸谷才一東海林さだおのエッセイ。一度ハマるとすべての著作を、とにかく古本で買い漁る。何度も読むので手元に置きたいのだ。大学の近くの古本屋街がとても重宝した。1冊10円、カバーなんていらない。今ではその辺りの古本屋はほとんどなくなって、ラーメン屋ばかりになってしまったが。

買い漁り、読んで、読んで、読んで、そしてあるとき、パタッと読まなくなる。女の子と別れた時みたいに、パタッと。そして、別の作家に走る。まあ、全部手に入れて全部読んだんだから読むものが無くなった、っていうのもあるんだが、数年後にその人の新刊が出ても、まず手に取ることはない。なんだかこう、怖いのだ。今より若い自分が憧れ、求めていたイメージを疎ましく思うからか。それとも、読み漁っていた当時の熱狂的な心酔が損なわれるような気になるのが苦しいのか。どっちにしろ、俺にとって本を読むということは、かなりの「同一化」みたいなのを必要とするものなのかもしれない。最近ではもう、そんな熱狂もどこかへ行ってしまったが。

俺は「モノ」に対する執着が異様に薄く、特に自分に関するものは、もうほとんど全て棄ててしまった。自分で書いた卒論も、子どもが生まれるまでの写真も、全く残っていない。でも、俺を作り上げてきた、この十数人分の「全集」は、どうしても処分することができない。別れた女の子にはもうなかなか会えないが、こいつらはじっと、いつまでも、ここで待っていてくれる。

いつか息子が、手に取ってくれたらいいな。たった1冊でもいいから。