恥ずかしの「町中華」
俺はハンチング帽を被り、髭を生やしている。髭の方はまあ、床屋以外では一切手入れしないので、「不精だから」という言い訳も立つ。しかし、ハンチング帽の方に関しては、「ハンチング帽が好き」というよりやはり「ハンチング帽を被った自分が好き」という部分が大きいのは否めないだろう。別に被らなくても何も問題はないんだから。そして俺は、そういった「自己愛」的なものが露出することが、とても恥ずかしいのだ。ややこしい性格である。
最近、「町中華」の店に入ることが多い。本格的な中国式の中華料理ではなく、「日式中華」というか、昭和の昔から町中によくある狭い店で、メニューには「ラーメン半チャーハン」「レバニラ定食」なんてのがある店。チャーハンの味はなにか独特で他になく、レバニラは妻子が嫌いなので家では食えないというのもあり、そしてどの店も、そこそこ安くてそこそこ美味い。「食べログ」なんかでは情報もろくに出ていない店も多いから、紙のガイドブックを買った。
この本には「この店のこれが美味い!」という情報だけが明確に掲載されていて、とても役に立った。人形町の「菊水軒」の麻婆丼なんて、たった750円で四川飯店と遜色ない(個人の感想です)。載ってる店のあちこちに通っていたところ、次の雑誌が出た。
これも手に入れて眺めていたんだが、これがもう、似たような本に見えて全く違うのだ。
先に買ったのはとにかく「料理」押しで、店内や店主の写真なんてほとんどない。ところが「サンタツ」の方は、料理より店主、店の佇まい、店内の趣、店の歴史、こだわり、触れ合い、それに「理想の町中華」のコラム。町中華の「達人」が、その魅力を語り合う。
そう、「サンタツ」は、「町中華が大好きな俺」を愛でるための本だったのだ。
そして、その町中華の「達人」達は、とても高い頻度で、ハンチング帽を被っている。
ジャズと落語が好きなんだろうな、と思う。
俺もジャズと落語が好きだ。
うわあ、は、恥ずかしい…。
田舎のヤンキーのジャージ然り、公務員の地味スーツ然り、自ら選ぶ「記号的」な服装というものは確かに存在する。俺にはそういった縛りはないと思っていたが、「自己愛のハンチング」があった。そう、今こうやって書いている自己愛、自意識。
ハンチングに書かされているのか?そうかもしれない。
だけど、ハンチングはやめられない。自己愛の坩堝。
「天才マンガ」の嚆矢 - マラマッド『レンブラントの帽子』を読む
「天才マンガ」というジャンルがある。といっても俺が今名付けたんだが、ググってみると「天才が出てくるマンガ」という意味でいくつか用例があるようだ。
俺がいう「天才マンガ」は、ただ天才が出てきて活躍する、というものではない。松本大洋の「ピンポン」、井上雄彦の「スラムダンク」といった、周りの「努力の人」にスポットが当てられ、かつ、明らかに努力では劣る主人公がそれを軽く超えていく、といった種類のものだ。うちの嫁なんかはそういうアメリカ的な「能力絶対主義」みたいなのが妙に好きで、「スラムダンク」の以下のセリフが「座右の銘」みたいになっている。
「パワーだけ」を極めてきた相手に対し、「天才」桜木は「パワーでも」勝つのだ。天才だから。
で、この「レンブラントの帽子」だ。
この小説には「天才」は出てこない。いや、出てきていなくはないんだが、とっくに死んでいる。レンブラントだ。
美術史家のアーキンは、彫刻家のルービンがかぶっている帽子を見て、何気なく「レンブラントの肖像にあるような帽子」と「褒め」、それにルービンがなぜだか心底腹を立てて、大喧嘩になって、最後泣きながら和解する、
この「怒り」の原因のヒントは、作内に散りばめられているが、明確な答えは用意されていない。ただ、俺は、ルービンの怒りの原因は己の「非天才性」によるものであると読んだ。
彼は本当は、レンブラントになりたかったのだ。技術だけでなく「パワーでも」、トップになりたかった。作中ではルービンはほとんど喋らないが、唯一、ポロックをディスるシーンがある。ポロックって、あの、こういうやつ。
こういう「小手先」ではなく、彼は、しっかりとした技術で、しっかりとした最高の作品を作りたかった。彼のアトリエの中にある夥しい数の「駄作」がそれを物語り、個展で奥から出てこないことが、己の非天才性を自覚していることを物語る。
そこへ来て、別にレンブラントなんかに全く関係なければ似てもいない帽子をかぶってたら「レンブラントみたい」と言われて、それがもう堪らなく苦しかったわけだ。レンブラントみたいだって?俺のどこがレンブラントなんだ?レンブラントになりたかったさ、そりゃ!
「ピンポン」では、「真の天才」星野に敗れた「努力の秀才」月本は先生を目指し、いずれは卓球の指導者になるのだろう。努力によって技術を磨いた人間は、後進にそれを伝えることができる。そういった意味では美術学校で教えているルービンには救いがある。「天才」を指導することができれば、その作品の一翼を担えるということにもなるから。
ただここでふと、「小説」というものの残酷さに思いが至る。小説はいくら書いても、売れなければ一顧だにされず。「技術」の物差しも曖昧で、教えるにしても実績が必要だ。これを書いたのはもちろん小説家であり、その覚悟と自意識のようなものも感じ取れるような気がする。っていうか、こんなの書けないよ。脱帽。
ホラゲさんのこと③
その日は珍しく「ビータ」(旅)と言われる遠征で、三重の松阪市にオープンするビジネスホテルの宣伝の仕事だった。もちろん交通費をケチって、ワゴン車で行くことになっていた。
ホラゲさんが来るものだと思っていたら、別の三十絡みの男が運転して来た。
その男(自称ドラマー)がまあ、フカすフカす。「俺は超多忙なスタジオミュージシャンだ」「さっきまでB'zの松本とセッションをしていた」「メジャーなアーティストで俺のことを知らない奴はいない」。ホラゲさんの使い走りで1泊2日で運転する奴がそんな大層なはずはないっていうのは誰でもわかるが、高速道路でハンドルを握ってるわけで、メンバーは神妙に頷いていた。ただ、どうも車の下からおかしな音が聞こえてくる。
その頃、ちょうど「偽造500円玉」が横行していて、高速のサービスエリアなんかでは500円玉が使えなかった。その男は俺に500円玉2枚と千円札を両替してくれと頼んできて、まあ別に明らかに本物だったから両替してあげたのを覚えている。
仕事の方はまあ散々で、寒空の下長時間の演奏で、いつものホラゲさんの仕事といったところだったが、まあ、旅行がてらということもあって、それほど辛いものではなかった。
ところが帰り道、車の下から出る音がどんどん酷くなり、異臭と煙が立ち込めてきた。横浜青葉辺りのインターでなんとか高速を降りたが、もう車は出せない。そのとき、自称ドラマーが、「これで帰ってくれ」と渡してきたのが、大量の500円玉だった。両手いっぱいの。3万円はあったか。
「ジャーマネ」の俺は、タクシー代をそこから出して、残りは「部費にする」と言って、ちょろまかした。
ホラゲさんのこと②
相模原辺りのショッピングモールのオープンセレモニーの仕事があったときも、ホラゲさんは値切って、交通費を惜しんで、自分の車で機材を運ぶと言い張った。俺と、当時付き合っていたクラリネットの彼女の2人は俺の(親のだが)車で行き、現地で合流するということになった。
俺と彼女は現場にだいぶ早く着いたが、ホラゲさんが来ない。
首都高の入口が閉鎖されていたとのことで、オープニングに間に合わないという。
でも、ショッピングモールのオープンの時間はもちろん決まっている。最初がいちばん肝心で、「どかーん、とファンファーレをやってくれ」という依頼に応えるべく、かなり打ち合わせと練習を積み重ねてきていた。
ところが、メンバーが間に合わない。
全員間に合わないならまあ、もう、どうしようもないんだが、間の悪いことに、トランペットとクラリネットという、高音ヒョロヒョロの楽器が1本ずつ。ドラムロールもなにもなく、それでも主催者側は、やれ、という。まあ、そう言うわな。
やりましたよ。最高に弱々しい、最低のオープニングのファンファーレ。あれ、絶対ない方がよかったと思うんだけど。
そのあと遅れて来たホラゲさんはそれはもう、主催者側からめちゃくちゃに叱られて、あとのステージはちゃんとやるように釘を刺されて俺たちのバンドの方に合流したんだが、その「打ち合わせ」のとき、ホラゲさんはもう、ずっと「ヤングジャンプ」のページを覗き込みながら心ここにあらずで、ガクガク頚を振りながら生返事を繰り返すのみで、よくこんなでイベント会社なんてやっていけてるもんだと思ったもんで。
で、そのあと、ホラゲさん絡みでまあなかなか得難い経験をすることになった。
ホラゲさんのこと①
大学時代にジャズのサークルでラッパを吹いていた。
そのサークルというのがやたらと伝統的な奴で、「ゴトシ」と称する演奏の営業をして年に数百万稼ぎ、そのお金で毎年銀座の「ヤマハホール」で国内外からゲストを招いて「リサイタル」を行う、という仰々しいものだった。
ジャズといっても、ニューオリンズスタイルの古いもので、クールなモダンジャズではない。基本的な編成は、トランペット、クラリネット、トロンボーン、バンジョー、スーザホン、スネアドラム、ベースドラムの7人で、演奏しながら移動できるのが「売り」になっている。
「ゴトシ」(「仕事」の「ジャズ用語」。なんでもひっくり返す。「コードレ」、「ミーノ」、「ビータ」、「シーメ」…)の相場は1人1万、フルバンドでだいたい7人なので、「ラーギャ」は総額7万程度。個人には入らず、サークルの運営費に充てる。
俺はそのサークルの「ジャーマネ」(マネージャー。もういいな。普通に書こう)として、営業部長のようなことをやっていた。携帯電話がそこまで普及していない時代で、学校の近くの「喫茶ぷらんたん」に交代で入り浸り、コーヒー飲んでタバコを吸いながら客からの電話を待つ。あの頃はタバコを吸わない奴は変人扱いされてたな。
ホラゲさんから最初に電話がかかってきたとき、ぷらんたんには部員が誰もいなくて、ママさんが電話を取って俺に伝えてくれた。俺は折り返し電話したとき、間違えて「ホゲラさんいらっしゃいますでしょうか?」と、やたら丁寧で最悪の応対をしてしまった。
ホラゲさんはイベント系人材派遣会社の社長だった。彼が持ってくる仕事はどれもなかなか過酷なものが多かった。売れない芸人さんといっしょに一日中パチンコ屋の新装開店のPRをしたり、商店街のお祭りのパレードで寒空の下を延々歩き回ったり。
しかも、とにかく、値切ってくる。7万円に交通費の「相場」のところ、ホラゲさんは5万以上は出そうとせず、交通費も浮かせようと、自分の車を出してくることが多かった。
そして、名前より中身がよっぽど「変」な人だった。